・六角氏ってどんな家?

六角義賢(ろっかく よしかた)は1521年南近江(滋賀県)の 六角定頼(ろっかく さだより)の息子として生まれます。
六角氏ってのは鎌倉時代から続く由緒ある名家で南近江だけではなく伊賀(三重県)の4郡のうち3郡も支配下に置いていました。領地も大きいし歴史ある家なので京都の政界にも深い関わりを持っていました。

・信長上洛!

織田信長(左)と足利義昭(左)1568年に京都を目指して上洛する

父親が合戦で討ち死にしたため、六角家の15代当主となった義賢ですが、転機が訪れたのが1568年の事です!

そう、あの織田信長(おだ のぶなが)足利義昭(あしかが よしあき)を奉じて京都に上洛を開始したのです。ちなみに、信長が支配する美濃(岐阜県)から京都への通り道に義賢の領地があるわけなんですね。当然のごとく信長は将軍が上洛するから手助けをして道を通してよって使者を送ります。

し・か・し、この信長の要請を義賢はにべもなく断っちゃいます!
なぜかって?それは、信長の使者が来る前に義昭の反対勢力である三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と手を結んじゃっていたからなんですね。
しかも信長がきたらこうやって戦って追い返しちゃおうぜって密談までしたたものだから信長のいう事なんか聞くわけありません(笑)

信長が再度使者を送ったものの病気を理由に面会謝絶!
実は、六角氏って本城周辺に家臣を住まわせたり、楽市(特権を持つ商工業者を排除して自由に物の売買できるように自由取引市場を作ろうという制度)の発展とか、かなり先進的な政治をしていた守護大名(幕府が国単位でおいた軍事指揮官および行政官で今の県知事的な立場)だったので信長も敵対したくなかったんじゃないか?なんて説もあったりします。

ただ2回も使者を送って断られてしまったわけなんでもうヤルしかないですよね。
ここで織田軍6万対六角軍1万1千の軍勢が戦うことになります。

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観音寺城の石寺楽市

・観音寺城の戦い

義賢は観音寺城(かんのんじじょう 義賢の居城)を中心に各城に部下を配置して信長を迎え撃ちます。
各城に立て籠ってそのうち来るだろう三好三人衆の援軍を待つ作戦だったのだと思われます。

義賢は、まずはここに攻めてくるだろうという和田山城(わだやまじょう)に6000の兵を詰めました。
攻めてきた信長軍を足止めして別の城から部隊をだして挟み撃ち!という必勝の作戦です。

が、そんな罠にひっかかる信長ではありません!義賢の裏をかいて箕作城(みつくりじょう)という、えっ、ここから攻めるの?と思っちゃう後方の城を攻め始めたのです。

ちなみにここを攻めたのは、あの豊臣秀吉(当時は木下秀吉と名乗っていた)を含む、信長滝川一益丹羽長秀の部隊でした。箕作城は堅固な城だったらしく昼の戦いでは落城できず逆に信長軍は逃げ出す始末で、この城どうやって落とす?と協議した結果夜襲に決定ました。

昼間あんなにハッスルして攻めてきたんだから、初日から夜襲はないだろうと思い込んでいた城兵たちもこれにはビックリ!防戦したものの200人以上も首級をあげられ落城しちゃいます。さらには罠として用意していた和田山城もこの落城騒ぎに驚き戦いもせずに城兵が逃亡。

長期戦を考えていた義賢は1日で2つの城が落ちたことにテンションだだ下がりです。
居城である観音寺城が守るには不向きと思い(手勢も1000人たらずだったし)そのまま甲賀に夜逃げしちゃいました。 義賢は、 わずか1日で所領を失ってしまったのです。

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・その後

ほぼ信長ワンサイドゲームとなってしまったこの戦い、ボスが逃げてしまったため義賢にしたがっていた部下たちは信長に次々と降伏していきます。
義昭も無事上洛を果たし室町幕府15代目将軍となるわけなんです。

一方、夜逃げしちゃった義賢ですが残存した戦力でゲリラ戦を仕掛けていきますがうまくいかずキリシタンの洗礼を受けた後、天下を収めた豊臣秀吉の御伽衆(秀吉の話相手になったり経験を語ったりする役職)になって1598年に亡くなりました。秀吉の夜襲で領地を失って最後はその秀吉に仕えるってのもなんだか皮肉な話ですね。

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