山岡景隆(やまおか かげたか)

山岡景隆(やまおか かげたか)
生没年 1525~1585

生い立ち

山岡氏は近江の国(現在の滋賀県)の国人です。
甲賀の伴氏の後裔とされ、甲賀郡山岡発祥とされているので甲賀にも顔がきいたようです。
ちなみにですが、功名が辻で有名な山内一豊(やまうち かずとよ)が浪人中に雇われていた事があるみたいです!びっくりですよね。

さてさて、景隆は山岡景之の子として生まれました。
初期のころは最初は六角氏、足利義輝に仕えていた山岡氏。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、信長から降伏勧告が届きます。
降伏するのかと思ったらこれを拒否!!

近江南部の国人たちと一緒に信長に抗戦しました。
が、勢いのある織田勢に敵うわけもなく大和国(奈良県)に逃亡して、松永久秀に人質を送って仕えた後に1571年頃に信長に降伏したようです(延暦寺焼き討ちあたりで)
ちなみに弟の山岡景友(やまおか かげとも)は兄が降伏したあとも抵抗したのですが、最終的には景隆の説得に応じて1573年に降伏して兄と一緒に佐久間信盛の与力になりました。

織田家の家臣時代は苦労した?

景隆はだいぶ苦労したようで、元々敵だし織田家から見たら新参者で裏切るんじゃないかと疑われていたようでした(1570年に甲賀に逃げた六角の残党との内応を疑われたり、1573年には弟の景猶(かげなお)が松永久秀への内応を疑われたという記録が残っている)しか~し、甲賀衆の指揮権を与えられ、槇島城攻め(佐久間信盛・蜂屋頼隆らが足軽50ほどを討ち取ったとあるので活躍したと思われる)などで戦功を挙げました。
また、信長・信忠親子が上洛の行き帰りには度々、勢多(景隆の居城)に宿泊していたという記録が(信長公記)にあるのでだいぶ信用を得ていたようです。
あの信長から信用を得るために苦労したんでしょうね(汗)

1577年の雑賀攻め、1581年の伊賀攻めにも参加して実績を積み上げた隆景でしたが、1582年の本能寺の変でついに律義者ぶりを発揮しちゃいます♪

明智光秀の近江侵攻を阻止!!

これが今回のメインの話です(笑)
山岡景隆が一番活躍したであろう出来事とは。

まずは、勢多の橋に関してからですね。

信長に架橋奉行として木村次郎左衛門と共に任命された山岡景隆は、若狭の神宮寺山と近江朽木山から材木を取り寄せ、1575年7月12日、長さ約324 m(180間)余り、幅約7.2 m(4間)、両側に欄干を備えた橋を完成さました。初めて銅製の擬宝珠が欄干の親柱に付けられた立派な橋だったそうです。

完成した橋を瀬田の番人として居城勢多を中心に栗田・志賀の両郡(交通の要所で美濃方面(岐阜)からは京都の入り口にあたります)を守っていた景隆ですが本能寺の変で信長が死んでしまいます!!

謀反をおこした明智光秀は近江からの敵侵入に備えるための要を守る隆景に人質を出して味方につくよう使者を出しますが「信長公の御恩浅からず中同心申間敷の由候」とこれを拒否しちゃいます。弟の山岡景佐(やまおか かげすけ)と山岡景猶(やまおか かげなお)が光秀の与力だったので味方つくと思っていたであろう光秀には誤算だったと思います。が、景隆からしたら新参者として織田家で律儀者として信用を得てきたのだからそんな簡単に裏切れないですよね。主の敵でもあるわけだし。

そして、景隆は瀬田の城と橋を焼き落とし山中へ逃げ込みます。安土を責めようとした明智軍でしたがこのせいで3日間足止め(仮橋を作るのに時間がかかった)をくらってしまいました。
景隆たちは山中に逃げながら羽柴秀吉(はしばひでよし)に逐一光秀軍の動向を知らせて邪魔をし続けます。
光秀の天下取りの失敗の要因の一つを作ったと言ってもいいですよね。結局は山崎の合戦で光秀は戦いに敗れしまい逃げた所を落ち武者狩りにあって死んでしまいます。

・その後

信長亡きあとの跡継ぎ問題で織田信雄側について、秀吉に属して伊勢諸城の攻撃に参加したのちに賤ケ岳の戦いに参戦するのですが…神戸信孝・柴田勝家に内通したとされ合戦後に所領を没収されて甲賀に隠遁したのち1585年61歳でこの世を去りました。晩年はあまりめぐまれたとは言えない最後でした。

ただ子供の山岡景宗(やまおか かげむね)は秀吉に許されて1450石をもらい、馬廻の1人として朝鮮の役では秀吉にしたがって肥前国名護屋城に在陣し、秀吉の死後には秀頼に仕えて、大阪の陣でも豊臣方として戦いました。戦後は徳川家に罪を許されて本領を安堵されました(諸説あり1599年に死亡説もある)

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